左斜め上からジュエリー業界を元気にする中小企業診断士 広岡徹也です。今日も前回に続いて事業承継について取り上げます。
上杉謙信

事業承継の第二回目は上杉家(謙信・景勝)です。「上杉謙信に学ぶ事業承継」という書籍があるのですが、現代の企業経営における事業承継に通ずる部分があり、おすすめです。謙信もそうなんですが受ける側の景勝についての記述が非常に示唆に富んでいるため、今回は受ける側(景勝)に焦点を当てていきます。上杉謙信も武田信玄と同様、戦国時代を代表する武将として名を馳せましたが事業承継はかなり不器用で、渡す側への引継ぎ等はほぼゼロでした。謙信自身も仏教への信仰心から子供を作らず、血のつながりのない養子(景勝、景虎)2名を残し、後継者をはっきりと指名しないまま目眩を訴えて倒れて、そのまま帰らぬ人となりました。謙信はとてもお酒が好きで、梅干を肴にして酒をガンガン飲む人だったらしいです。謙信の死後どうなったかと言うと、2人の養子の間で越後の国をどちらかが治めるかで2派に分かれ、周辺の国々もどちらかに加担して内乱が勃発します。
謙信時代からの重臣として補佐役を担っていた直江兼続のバックアップもあり、2年間に及ぶ御館の乱を景勝側が制し、景虎(北条家の出身)は自刃しました。

謙信からの引継ぎがゼロで、実力で後継者の座を勝ち取った景勝ですが、実に巧みに国を治めていきます。当初から順風満帆であったわけではなく、内乱平定の最中に織田信長に侵攻されましたが、本能寺の変で戦局は一変し、景勝は豊臣秀吉と提携し関係強化を図っていきます。秀吉に越後(90万石)から会津(120万石)の移封を命じられ、大大名の地位を確立していきます。しかし、移封間もなく秀吉が他界し、関ヶ原の戦いで西軍について敗北した景勝は窮地を迎えます。通常であれば上杉家の取りつぶし、廃絶が普通の流れですが、家康に迅速に謝罪したほか、廃絶にならないように根回しも行い、とにかく家康に恭順の意を示し、米沢(30万石)への減封で済みました。石高が1/4となり、このままでは財政が逼迫するため通常であれば人員削減のリストラを行うのですが、景勝は一切やらず、人こそ家の財産なりと言って財政の立て直し、切り詰め策を実行し、その後270年にも及ぶ米沢藩のその後の存続繁栄に繋げました。また、大坂冬の陣でも以前お世話になった秀吉の子息である秀頼軍を相手に目覚ましい活躍を見せ、家康の信頼も勝ち取りました。

前回の受ける側の武田勝頼とは対照的に上杉景勝は企業経営で言えば、社内・社外で起きうることを漏れなく想定しつつ、先を見たうえで一族の中長期的な繁栄存続をゴールにして、現実的な対応を的確に行った印象があります。
整理すると以下の3点がポイントとして挙げられます。

1)先代を敬う
先代が考えてきたこと、やってきたことを受け入れて謙虚になる。例えばですが、後継者主導で社史を作り、会社の歴史を従業員と共有したうえで、向こう20年後の将来のビジョンを皆で作る。

2)変化への対応力
企業の存続・成長には欠かせない要素ですが、景勝は実に巧みに対応していたと考えられます。自身の力量、置かれた状況と外部で起きていること、今後起きうることを客観的に整理分析し、素早い対応を随所に行っています。

3)補佐役の存在と本人が聞く耳を持っていたこと
2)の対応力を高めるためにも、これは必須です。景勝で言えば謙信時代からの重臣・直江兼続が名補佐役として機能しました。通常の事業承継ですと先代の番頭さんなどがそうですが、煙たがらずに有能な方は引き続いて重用し、耳の痛い意見をありがたいと思って聞くことが大事です。  

あと、渡すほうについてですが、今回のように後継者が2人いた場合、後継者を競わせてはダメということも重要ですね。先代がいなくなると十中八九、二分して争いが起きます。長くなりましたが今日はこのへんで。最後までお読みいただいてありがとうございました。